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    温泉は街道から幾折れかの石段で溪ぎわまで下りて行かなければならなかった。街道もそこまでは乗合自動車がやって来た。溪もそこまでは――というとすこし比較が可笑おかしくなるが――鮎が上って来た。そしてその乗合自動車のやって来る起点は、ちょうどまたこの溪の下流のK川が半町ほどの幅になって流れているこの半島の入口の温泉地なのだった。

    「何をするかつ」

    彼は背だけでなく、腕と云ひ胴体と云ひ、又その両脚と云ひどの部分もすべていやに長かつた。その手を差しのべて、房一を座蒲団の上に招じると、自分も対むかひ合つて座を占めた。すると、又もや長い両膝が蒲団の上からはみ出して、房一の方に向いてにゆつと二つ並んだ。

    房一は、犬を制した。ところが感ちがひしたジョンは堤防の方へ大急ぎで走つて行つたが、房一と徳次の二人がそのまゝ河原にしやがみこんだのを見ると、又一目散に戻つて来、まはりの草の中を嗅いで見、二人を眺め、一向に動きさうもないと知ると、石ころの上に腹を着けて長い舌を出した。が、急に尻尾を振つた。二人が彼の方を向いたからである。

    「いや、そのうち又ゆつくり話さう」

    徳次は指で真似をした。

    彼は実際に身体を顫はせて見せた。彼の眼にはいつも肩章や、きらきらする指揮刀が眩まばゆく輝いて見え、むんむんする隊列の汗と靴革の匂ひ、町中を行進するときや、町外れの木蔭で見物人にとりまかれて兵卒に演習の想定を説明するときや、それらの晴れがましい空気の思ひ出が、今は日焼けがとれて生白くなつてはいるが、眉の強い、眼の切れ目な、短い鼻髭の生えている彼の稍冷い顔を生き生きとさせるのだつた。恐らく下士官頃の上長に対する習慣からか、彼は今でも無意識のうちに自分を引上げてくれる上長を求めているもののやうであつた。河原町でも、彼は鍵屋の神原文太郎氏のところや大石医院などへよく出入した。徳次が今泉を何となく気に入らないのも、多分さういふことも預つているのだらう。

    彼が感動したのは他でもない、決してつかまらない年月といふもののふしぎさ、その尨大な、とりとめもない曖昧さ、しかもなほ決して空虚ではない、いや空虚とその反対のものが一杯にまざり合ひ、犇ひしめき、微妙につながり合ひ、その或る時は軽快に、或る時は重々しく、何かはつきりしているかと思へば混乱し、――さういふ得体のしれない経過のせいだつたのである。

    「あのう、笹井へ往診がございますが」

    急いであたりさはりのない返事をすると、今泉はもう隣りの人の方を向いて挨拶をした。

    「かう云ふと、君は笑ふかもしれんが、自分の親だの子だのいふ者を診るのはじつに困るんだ。なんだかそはそはしてね」

    「あの訴訟はどうなつたのかね」

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